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Ri棚田学会
Rice Terrace Research Association

rrce Research Association
                    文化的景観

棚田の定義
棚田の起源
棚田の意義
棚田の種類
文化的景観

世界農業遺産(日本)

1.棚田は文化的景観
「フィリピン・コルディレラの棚田」が世界遺産に登録(1995年)されたことを契機として、稲作などの「農林水産業に関連する文化的景観」(以下、「文化的景観」という。)が注目されるようになりました。その後、ヨーロッパ諸国におけるワイン生産に関連する葡萄畑等の「文化的景観」が相次いで世界遺産に登録されるなどの近年の動向とも呼応して、わが国においても、有形・無形を問わず、歴史的な価値を有する文化的な所産を広く文化遺産として評価し、新たな保存・活用の対象として位置づけられるようになってきていますが、「文化的景観」はその重要な要素の一つとなっています。

2.名勝指定
このような情勢を踏まえ、平成11年5月10日に長野県千曲市の千枚田が「姨捨(田毎の月)棚田」として国指定の名勝に指定され、続いて平成13年1月30日に石川県輪島市の千枚田が「白米の千枚田」として指定されました。名勝に指定されたこれらの棚田においては、生態系の維持及び地すべり地帯における防災など棚田が果たす多様な機能にも十分注目しつつ、とりわけ文化遺産としての棚田が持つ高い文化的価値を後世に確実に伝えるために、各種の取組みが積極的に進められようとしています。


長野県・千曲市・「姨捨(田毎の月)棚田」 c:小林修二


石川県・輪島市・「白米の千枚田」 c:景井成光

3.重要文化的景観
平成18年1月26日にわが国で初めて「重要文化的景観」として滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」が選ばれました。
そして平成20年7月28日に「蕨野の棚田」(佐賀県唐津市)と「通潤用水と白糸台地の棚田景観」(熊本県山都町)が棚田として初めて選定されました。重要文化的景観に初めて棚田が選定されました。

1.蕨野の棚田(佐賀県唐津市)
平成20年7月28日選定
 「蕨野の棚田」は、唐津市相知町内に所在し、蕨野区と池区の二つから成る。棚田は、八幡岳の馬蹄形状をした北向きの急斜面地に約36haにわたってひろがっている。棚田の石積みは野面積みを基本とし、平均の高さは3〜5m、高いものでは8.5mに及ぶ。池区には棚田の水源となる2つのため池(明治18年,昭和12年)がある。蕨野の集落は、平山川河谷の標高150m付近に疎開村状に展開しており、「ツカ」と呼ばれる防風石垣を伴う民家を残している。技術的な特性から、防風石垣の石積みと棚田の石積みは、同じ石工(集団)によって積まれたと考えられる。
 棚田の築造は、少なくとも江戸後期にまで遡ると考えられるが、現存するものの大半は明治〜昭和20年代までに形成されたものである。棚田とその周辺の森林及び水系は、固有の製造技術や「手間講」と呼ばれる共同作業に基づいて維持され、それぞれの関係を維持しつつ一体として独特の土地利用を持つ文化的景観を造り上げた。現在は、減農薬・減化学肥料によって生産された「棚田米蕨野」が、ブランド化に成功しつつある。

 
「蕨野の棚田」 c:蕨野の棚田保存会        高さ8.5メートルの高石垣

2.通潤用水と白糸台地の棚田風景(熊本県山都町) 
平成20年7月28日選定
 山都町は九州の中央部に位置し,世界最大のカルデラ地形を呈する阿蘇の南外輪山のほぼ全域を占める。町域の南側は九州背梁山地に接し,緑川が東西に貫流している。緑川以北の地質は阿蘇火砕流堆積物が主で,外輪山山頂を水源とする小河川の浸食により解析谷と火砕流台地が形成されている。山都町の中心地である浜町の南方に位置する白糸台地はこの一つであり,四方を河川が囲繞しているため,古くから河川を利用した流通・往来の中心地として栄えるとともに,農業用水に困窮する地形条件から,近世後期において通潤橋を伴う大規模な基盤整備事業を実施することとなった。「通潤用水と白糸台地の棚田景観」は,流通機能において,結節点として重要な場所であったことを示す様々な痕跡を残しつつ,通潤用水とこれに伴う棚田が,造成時期の原形を保ちながら農耕活動が現在に至るまで継続することによって維持されてきた重要な文化的景観である。


 
「通潤橋と棚田」                  「白糸台地の棚田」
本文章は文化庁のHPを参考にして作成致しました。


3.「四万十川流域の文化的景観 上流域の山村と棚田」(高知県檮原町)
平成21年2月12日選定
梼原(ゆすはら)川上流区域は様々な渡河の方法や川への信仰を伝える集落と源流域における合理的な水利で維持管理されてきた棚田の景観地である。急峻な山肌に開かれた棚田は堅牢な石垣に守られ幾層にも重なりあう。「千枚田」とも呼ばれているこれらの棚田は地域の歴史と共に地域の人々の相互扶助で営々と築かれ守られてきた農業の原風景ともいえる貴重な文化的景観である。
  神在居(かんざいこ)の棚田は棚田オーナー制度発祥の地であるが、当時の棚田オーナーの募集は都市部で大反響を呼び、現在も都市部オーナーと神在居の人々の交流は続いている。棚田は日本の農山村の原風景ともいわれ、安らぎ、癒される景観である。
 梼原川中流域区域は豊富な水量により漁労や舟運を成り立たせ、河川水を巧みに利用してきた集落と梼原町の人々の暮らしを成り立たせてきた森林の景観地である。
司馬遼太郎は『街道をゆく』の27巻で「檮原(ゆすはら)街道」を歩いていま.す。棚田の前で、司馬遼太郎が「万里の長城に匹敵する」と感激した場所です。棚田は長年にわたる農民の力と叡智によって築き守ってきた大いなる遺産です。第1回全国棚田サミットの開催地でもあります。


  
「神在居(かんざいこ)の棚田」    司馬遼太郎が「万里の長城に匹敵する」と感激した場所

4.姨捨の棚田(長野県千曲市) 
平成22年2月22日選定
 古くから月見の名所や棄老伝説で著名な姨捨山北麓の標高460〜550mの傾斜地には、千曲川から善光寺平に至る広大な盆地に臨んで約1500枚の水田から成る棚田が展開している。近世初頭に畑作と稲作が混在する農耕が定着し始め、利水が進展することにより稲作が主体となり,近世末〜近代に日本を代表する棚田の文化的景観を形成した。
 姨捨の棚田の基本構造は、土石流が形成した斜面上に展開する棚田を中心として、水源である更級川上流の大池と斜面下方の集落とが有機的に結びついている点にある。近世初頭における営農は斜面上の小涌水群を利用して出発したが、大池から更級川を経て各用水へと給水する灌漑手法が導入され、土坡の畦畔を超えて導水する「田越」と呼ぶ灌水方法や、水田の下層に敷設された「ガニセ」と呼ぶ暗渠による排水方法が採用されることにより、棚田は斜面全体へと広がっていった。
 姨捨の棚田は、水源となる大池から更級川へと繋がる水系を軸として、用水や田越の給水手法が網の目のように張り巡らされ、近世から近現代に至るまで継続的に営まれてきた農業の土地利用の在り方を示す独特の文化的景観であり、我が国民の生活又は生業を理解する上で欠くことのできないものである。

  
「姨捨の棚田」                  四十八枚田と田毎観音

5.平戸島の文化的景観(長崎県平戸市) 
平成22年2月22日選定
平戸島の小河川沿いの谷部には、安満岳を中心として防風石垣や石塀を備える春日・獅子・根獅子・宝亀、田崎・神鳥・迎紐差の集落や棚田・牧野が展開している。これらの集落の多くは、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて書かれたイエズス会宣教師の書簡において、教会や慈悲組合についての記述とともにその名を確認することができる。また、現在も伝統的家屋の中に戦国〜江戸時代初期のキリシタン信仰に起源を持つ納戸神を祀るなどかくれキリシタンとしての営みを続け、安満岳や中江ノ島のような聖地とともに、殉教地を伴う独特の様相を現在に留めている。棚田群は、大きなものでは海岸から標高約200mの地点まで連続して築造され、山間部に点在する若干の耕作放棄地を除けば、全体としてよく耕作されている。地元の礫岩を用いた石積みの中には、生月の技術者集団の手によるものも認められる。以上のように、「平戸島と生月島の文化的景観」は、かくれキリシタンの伝統を引き継ぎつつ、島嶼の制約された条件の下で継続的に行われた開墾及び生産活動によって形成された棚田群や牧野、人々の居住地によって構成される独特の文化的景観である。

   
「春日の棚田」  c:高橋久代        平戸市・紐差町「紐差カトリック教会」

6.樫原棚田及び農村景観(徳島県勝浦郡上勝町) 
平成22年2月22日選定
四国の勝浦川上流部は急峻な地形の合間に棚田と農家が散在する地域で、その中の樫原地区には、深い山林に覆われた里山を背景として、樫原谷川へと連続する標高500〜700mの急傾斜面上に3つの棚田と居住地が展開する。閉じられた山間の地すべり地形を示す窪地状の地形に、一群の棚田と農家がまとまって展開する農耕と居住の在り方は、この地域の典型的・代表的な土地利用形態を示し、良好な文化的景観を形成している。樫原の棚田を中心とする土地利用形態の最大の特質は、文化10年(1813)11月の紀年銘のある『勝浦郡樫原村分間絵図』に描かれた水田の位置・形態、家屋・道・堂宇・小祠の位置などとの詳細な照合が可能なことである。精度高く描かれた詳細な内容と現況との比較により、200年以上もの間、土地利用形態がほとんど変化していないことがわかる。棚田への水利系統は、樫原谷川から等高線に沿って引かれた14本の用水により精巧に張り巡らされている。樫原の棚田は、全体の面積が大きいのに対し、水田1枚当たりの平均面積が180uと小さく、平均勾配は約4分の1と急勾配であり、立地する標高も町内の他事例に比較して最も高いなど、この地域における棚田の中でも特質が見られる。


「樫原の棚田」

7.大分県豊後高田市の「田染荘小崎(たしぶのしようおさき)の農村景観」
平成22年8月5日選定
今回答申されたのは、同市田染小崎と田染真中(まなか)の一部の農地や村落など計92ヘクタール。11世紀前半に宇佐神宮の荘園として開発された。
 水田は15ヘクタール、260筆あり、水路を使わず上流の田から下流の田へ直接水を引き入れる「田越(たご)しかんがい」が使われている。中世の地名や屋敷名が継承され、土地を区分けしていた土塁も現存するなど、14世紀前半から15世紀までの土地利用形態が今も残っている。
住民は景観維持のため1999年に「荘園の里推進委員会」を結成。市と共同で収穫した米を有料で配送する「水田オーナー制度」などに取り組んできた。同会の河野繁利委員長(81)は「先祖から受け継ぐこの地の重要性を再認識した」と、答申を喜んだ。
87年から田染荘の調査を続ける別府大の飯沼賢司教授(環境歴史学)は「高齢化の進む地域で、素晴らしい景観をどう活用していくのか。重要文化的景観への選定が、今後の展開の出発点でもある」と指摘。永松博文市長は「観光振興に向け、千年の時を刻む景観を守り、育てていく」と話した。
=2010/05/22付 西日本新聞朝刊=


中世より変わらない光景を見せる、小崎地区の田園風景

8.奥飛鳥(おくあすか)の文化的景観(奈良県高市郡明日香村)
平成23年9月21日選定
明日香村の中央部を貫流し大和川へ注ぐ飛鳥川の源流域では、スギ・ヒノキが卓越する深い植林地の中に集落・農地が営まれている。奥飛鳥地域の記録は皇極天皇元年(642)に遡ることができ,中世末期には入谷・栢森・稲渕・畑の四大字が飛鳥川上流域のムラとして成立したとされる。地域ではハギやヤマブキなどいわゆる万葉植物の植生も卓越しており、豊かな生態系が育まれている。飛鳥川沿いに展開する河岸段丘面上や山裾、山の緩斜面上には、小規模な集落が展開する。いずれも斜面地に平場を造成するために、飛鳥川の川石や山を切り開いた際に出土した石材を用いた石積みを伴う。集落の中には、急傾斜の茅葺き屋根と緩傾斜の瓦葺き屋根を有した落棟とを組み合わせた大和棟の民家が点在しており、石積みと併せて独特の集落景観を形成している。地域では主に農業が営まれており、特に稲渕では地域でも有数の広さを誇る棚田が形成されている。棚田には15世紀に遡るとされる井手によって水が供給されており、最長3.8kmを誇る大井手をはじめ数10本の井手が耕作者によって管理されている。地域では集落から飛鳥川に降りる階段を設えたアライバが現在も機能しており、また盆迎え・盆送りが飛鳥川を通じて行われるなど、飛鳥川と強く結びついた生活が営まれている。このように、奥飛鳥の文化的景観は,飛鳥川上流域において展開される、地形に即して営まれてきた居住の在り方と、農業を中心とした生業の在り方とを示す価値の高い文化的景観である。


  
「稲渕の棚田」                石積みが顕著な栢森集落

9.小鹿田(おんた)焼の里(大分県日田市) 
平成20年3月28日選定
日田市の最北端、大分県と福岡県との県境に位置する小鹿田皿山・池ノ鶴地区は、北に英彦山を控え、耶馬日田英彦山国定公園の南西部を占める地域である。日田市北部を南流する小野川の源流の一つである大浦川及び五色谷川が形成した狭隘な谷地において両地区は形成され、水・土・木といった地域資源を巧みに利用した生活・生業が営まれてきた。皿山地区では、当地で採取される陶土を利用した小鹿田焼の生産が行われる。「唐臼」と呼ばれる陶土を粉砕する施設は河川の水力及びアカマツなどの木材を活用したものであり、窯焼きの燃料には周辺で産出される杉材が用いられる。池ノ鶴地区では、急峻な斜面地に当地に分布するプロピライト(変朽安山岩)を利用した石積みの棚田が形成され、「除け」と呼ばれる独特の水利システムによって営農が継続されているほか、シイタケ生産や杉材を活用した薪炭材生産が行われる。「小鹿田焼の里」は、英彦山系を源とする大浦川及び五色谷川によって形成された狭隘な谷間で営まれる、水・土・木等の資源を活かした窯業や農業といった生業が、当地における生活の在り方を示す重要な文化的景観である。

  
「池ノ鶴地区の棚田」               唐臼

10.蘭島(あらぎじま)及び三田清水の農山村景観(和歌山県有田郡有田川町)
平成25年10月17日選定
 有田川の上流域では、穿入蛇行により形成された河岸段丘が形成されており、広く水田耕作が行われている。その中でも、河川蛇行部へ弧状に張り出した段丘地形において棚田が展開する蘭島は、審美的な観点からも価値が高い。中世の阿弖河荘に遡る当地において、現在に繋がる土地利用の基礎が築かれたのは、大庄屋笠松左太夫が集落・農地開発を行った近世である。明暦元年(1655)には、有田川支流の湯川川に井関を設け、湯と称する灌漑水路網を整備することにより、水田化が進展した。それぞれの湯では田人と呼ばれる水利組合が組織されており、現在も部頭(水利組合長)の下に水守が定められ、水路の補修・清掃・管理等が共同で行われている。また、耕地が限られる当地では、畦畔や集落の後背斜面等も山畑に利用された。かつて和傘に用いられた保田紙の原料であるヒメコウゾのほか、シュロ・チャノキ・サンショウなど、特徴的な植生を確認することができる。このように、蘭島及び三田・清水の農山村景観は、有田川上流域に形成された独特の河岸段丘地形において営まれてきた農業及び山の利用による文化的景観である。



「蘭島(あらぎしま)の棚田」 c:有田川村役場

11.求菩提くぼて)の農村景観(福岡県豊前市) 
平成24年9月19日選定
求菩提の農村景観は、周防灘に注ぐ河川沿いの狭隘な谷間に共通して営まれた農耕・居住の土地利用の在り方を示し、この地域の里に住む人々と山との関係を典型的に表す文化的景観の事例である。天台修験の聖地であった求菩提山(標高782m)の山中の行場をはじめ、修験者の生活の基盤となった山麓の村落・農地の姿を描いた18世紀後半の『豊пi州)求菩提山絵図』とも照合できる点で貴重である。求菩提山の堂舎群は失われて遺跡と化したが、岩峰及び岩窟群の位置・形姿は往時と変わらずに残され、山麓の鳥井畑の村落及び棚田・茶畑などの農地も基本的な骨格・構造がほぼ変わることなく現在に継承されてきた。極めて精巧な給排水網の下に野面積みの石積みにより区画された棚田の区域には、「ツチ小屋」と呼ぶ石積み擁壁から成る農作業用具の保管庫も点在し、修験者が伝えた石積みの技術の名残を示す独特の農地景観が見られる。村落には、豊前修験道の祭礼の流れを汲むお田植え祭をはじめ、季節の節目を成す伝統行事も伝えられている。このように、求菩提の農村景観は、近世に成立し、近現代にかけて、緩やかに進化を遂げたこの地方の土地利用の基本的な骨格・構造を伝えている。


  
「鳥井畑の棚田」               鳥井畑集落にある東の大鳥居

12.酒谷(さかたに)の坂元棚田及び農山村景観(宮崎県日南市) 
平成25年10月17日選定
宮崎県日南市西部の山間地に位置する酒谷地区は、年間降水量が3,000mmを超える多雨地帯であり、飫肥杉の豊かな林相が広く展開している。集落の起源は未詳だが、近世には郷士と呼ばれる足軽組軍団が畑地とともに山中に分散して居住していた。近代になると、人口の急激な増加に伴う食糧増産の必要性から耕地整理組合が組織され、酒谷の坂元集落では昭和3年(1928)から昭和8年にかけて、従来の茅場(かやば)・秣場に棚田が開かれた。棚田は、平均勾配1/7の斜面地に、高さ2m〜3mの石積みで区画された5畝ないし3畝の長方形の水田が27段にわたって整然と展開する。棚田への導水は約1.6km離れた2本の谷筋から長大な水路を引いて行われており、棚田内では階段状に設えられた石積みの用排水路が耕地を貫いている。また、集落上部の国有林では早い時期から、集落近傍の民有林は昭和40年代に草地・畑地・水田から転用され飫肥杉の林地となっており、良質の船材として油津等に移出された。このように、酒谷の坂元棚田及び農山村景観は、昭和初期の耕地整理事業により完成した石積みや用排水路を伴う長方形区画の棚田及び良質の船材として栽培された飫肥杉林等で営まれる生業と、畑地及び果樹林等を伴う居住地における生活とによって形成された農山村景観である。



「坂元棚田」

13.奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観(島根県仁多郡奥出雲町) 
平成26年3月18日選定
斐伊川の源流部に位置する奥出雲地域は、起伏の緩やかな山地と広い盆地が発達しており、「真砂砂鉄」と称される良質な磁鉄鉱を多く含有する地帯であることから、近世・近代にかけて我が国の鉄生産の中心地として隆盛を極め、「たたら製鉄」が栄えた。
丘陵を切り崩し水流によって比重選鉱するという「鉄穴流し」が広範囲に行われ、この鉱山跡地(鉄穴流し跡)では、後にその地形を活かして豊かな棚田が拓かれた。
 江戸時代、松江藩は,有力鉄師(たたら経営者)のみに鈩株(鈩経営権)を与え、安定経営を図ったため、国内の一大鉄生産地域となった。明治に入り、安価な洋鉄が大量に輸入されるようになったことなどから、たたら製鉄は次第に衰退し、大正末年には一斉廃業となった。その後、日本刀の材料となる「玉鋼」が枯渇したことから、昭和52年にたたら製鉄が選定保存技術として復活している。
 このように、奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観は、たたら製鉄・鉄穴流し及びその跡地を利用した棚田によって形成されたものである。鉄穴横手(水路)及び鉄穴残丘が点在する棚田が広がりをみせる農山村集落を、かつて鉄山(たたら製鉄用の木炭山林)であった山々が取り囲み、その一部で今なお、たたら製鉄が行われている景観地は、我が国における生活又は生業の理解のため欠くことのできないものである。



「大原新田」
大きく、整備された棚田は一見すると区画整理された圃場のようですが、古来より人のてにより整備・保全された棚田です。江戸時代の鉄師「絲原家」私財を投入し、かんな流し(砂鉄採取地跡)によりできた土地を畑、その後田んぼとして造成し、現在の水田になりました。

14.奥内の棚田及び農山村景観(愛媛県北宇和郡松野町) 
平成28年11月18日選定
 四国南西部では、四国山地と多くの支脈が東西方向に走るため、西海岸部はリアス式海岸である一方、内陸部は無数の山地が広がり平坦地はほとんどない。他方、四万十川はこの地域の中心を源流部として蛇行しながら土佐湾へ向けて東流する。奥内の棚田及び農山村景観は、四万十川の支流広見川上流部の奥内川沿いの山間部に位置する、江戸時代中期以降に形成された棚田を含む4つの集落から成る農山村景観である。古文書等の調査からは、地形条件に沿って、谷部を水田、尾根部を屋敷地、屋敷地周辺を畑として継続して利用されてきたことが確認され、その結果、ヒメアカネ及びアキアカネ等の赤トンボ類を含む貴重な生態系が現在も維持されている。また、山間部ではアラカシ、コジイ、コナラ等天然生林が広範囲に形成されており、地域本来の希少な山林景観を望むことができる。平成11年に農林水産省の「日本の棚田百選」に認定されてからは全戸加入の保存会が結成され、体験学習等の棚田保全が積極的に進められている。
 奥内の棚田及び農山村景観は、四国南西部の四万十川源流域の山間部を開墾した小規模な棚田群から成る文化的景観であり、四国山間部の厳しい地形条件の中で江戸時代以来現在まで継続されてきた生活、または生業を知る上でも重要である。

 
「奥内の棚田」


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